「練」とは

 「練」は古来絹(ねりぎぬ)を表す文字でした。唐の詩人李白はかつて古都金陵(南京)に遊び、長江に臨んで、敬愛する詩人、謝眺の一節を次のように詠じたと言います。

解道澄江浄如練
「道(い)い解(え)たり、「澄江(とうこう)浄きこと練(ねりぎぬ)の如し」
<現代日本語訳>
「長江が澄んでいることは、まるで練り絹のようだ」とはよく言ったものだ。

生糸は精練され、不純物を取り除かれて初めて、光沢のある練(ねりぎぬ)となります。
「練」はまた「練達」の「練」でもあります。たゆまぬ努力と深い経験によって卓越した技能や知識を身につけた人を「練達の士」と呼ぶのは御存じの通りです。
不純物を取り除く事、そして豊かな経験を積む事、このような2つの意味が「練」という一字には込められています。

明治維新、大阪大空襲、高度成長と、激動の時代を生き抜いてきたお屋敷に生まれた「練」。その歴史は今も建物のそこここに息づいています。その歴史の息遣いを感じながら、その名に相応しく、「精練」と「練達」とを心に刻み、かつて李白が長江を練に譬えた如く、水の都大阪の水面に映る絹のようなしなやかでつややかな「練」でありたいと願っています。

お屋敷縁起

「練」は古民家を利用した複合商業施設として2003年2月のオープン以来、長い年月に育まれたその風格ある佇(たたず)まいと趣とで、古い町並みの多く残る空堀とその周辺の地域に於ける中心的な役割を果たして参りました。2012年には母屋、蔵、表門が国の「登録有形文化財」に登録され、ますます多くの方々に愛され続けています。

「練」には、この古民家が経験してきた年月の足跡(そくせき)があちらこちらに刻まれています。それらの足跡(そくせき)は、かつてこの家に住まい、あるいは出入りした人々の日々の営みを今に伝え、今を生きる私達と、かつてここに生きた人々とが出会う道しるべとなります。

以下、そうした道しるべの幾つかを御紹介したいと思います。

<母屋>

母屋の狭い階段をのぼって二階に上がると、三室ある和室を大きなガラス窓のある回り廊下がぐるりと取り囲んでいます。そこから見えるのは、連立するビルとその谷間に見え隠れする瓦屋根ばかり。「せっかくの総ガラス張りなのに、景色がどうも良くない。」と思われた方もあるかもしれません。
現在は店舗で区切られているため分かりづらくなっていますが、実は一階も二階と同様、部屋の外側を廊下が巡っていて、その廊下もやはりガラス戸で囲まれています。つまり、この母屋は外の景色を眺めるのに都合の良いように建てられていると言えるでしょう。

竣工当時の母屋  一般にこのような建物は、広大な庭園の中か、見晴らしの良い場所にあってこそ、その真価が発揮されるはずのものです。では、この母屋が建てられた当初、ここに大きな庭園があったか、もしくは、この辺りは見晴らしが良く、風光明媚な場所だったのでしょうか?答えは何れも「否」です。
庭に関して言えば、北と西の道路の位置は現在と変わらず、南には隣家が迫り、現在のような僅かばかりの庭がある程度。唯一、東側には庭がありましたが、それとて庭園と呼べるようなものではなかったとの事。
又、この母屋が建てられた大正末、大阪は既に大都会で、この界隈は町屋がびっしり建て込み、舗装されていない道を探すのが難しいほどだったと言いますから、風光明媚とは言い難く、見晴らしも決して良かったとは思えません。
では、なぜこのような場所にこのような母屋を建てたのでしょうか?

この疑問に答えるヒントとなりそうな話が、持ち主の家には伝わっています。この母屋はここより西方にあった大きな御殿の一部を移築したものだ、という言い伝えで、その御殿は本願寺の別邸とも、有栖川宮の別邸とも言われているのですが、長らく口伝の域を出る事はありませんでした。
が、2002年の改装の際、これらの謎を解く鍵となりそうな資料がこの家の蔵から出てきました。この家を建てた人物の手になる「本宅」と題されたノートです。唯、不思議なことに、この本宅ノートなるものは「第弐(に)」「第参(さん)」「第四」だけがあって、なぜか「第壱(いち)」がありませんでした。
この母屋は大正十一年に建築が始められ、すべて完成するまで六年もの歳月がかかったと言われているのですが、見つからなかった「第壱」に続く「第弐」のノートは、次のような一文から書き始められています。

大正十一年二月八日 高津警察署ヨリ建築評価士出来タル

そして、その少し後に「大正十一年五月二十日 建築物許可ノ申請ヲナス」とあり、続けて、「桧(ひのき)六丁板 壱束運来ル」などと、建材が徐々に運び込まれる様子や基礎の位置を図示したスケッチなども交えて、建物が出来上がっていく過程が三冊のノートを通して克明に記されています。
となると、見つかっていない「第壱」のノートには、この建物を建てる前、つまりこの建物が建てられるまでのいきさつが書かれていると考えるのが自然でしょう。ノート丸一冊分の記述となれば、当然、かなり入り組んだ事情があったのではないか?と推察されます。このように考えてみますと、あれこれ想像を刺激されるところですが、残念ながらこの「第壱(いち)」のノートは未だ見つかっていません。

そこで、別の角度からこの母屋の出自を探ることができないかと考えてみました。
先に、持ち主の家に伝わる口伝では、この母屋は本願寺の別邸か有栖川宮の別邸だったという事になっていると書きました。ではまず、本願寺の別邸だったと仮定してみると、現在の須磨離宮の場所にあった月見山の別邸がもっとも有力な候補でしょう。月見山別邸とは、西本願寺の大谷光瑞(こうずい)が、西方探検で集めたインド仏蹟調査の整理と研究をする目的で、須磨月見山の山林に総敷地面積三万三千坪という広大な敷地取得し、建設したものです。
西本願寺月見山別邸 註1より が、その別邸は写真のように、二階建ての洋館を中心として四棟の平屋が連なったもので、この母屋とは趣が違います。更に、この月見山別邸は明治四十年、宮内庁に売却され、武庫離宮として生まれ変わる事となります。武庫離宮の建設は明治四十四年十一月に着工され、洋館など一部の建物は京都など他の地域に移築されたといいます(1)。 この事から、本願寺の月見山別邸がこの母屋と関係があるとは考えがたいように思われます 。

有栖川宮舞子別邸 註2より では、有栖川宮の別邸の方はどうでしょう?これより西にある有栖川別邸と言えば、現在の舞子ビラの場所にあったものではないかと考えられます。舞子の有栖川宮別邸は、明治二十六年春より着工し、二十七年に完成しました。が、翌明治二十八年、有栖川宮は腸チフスで薨去(こうきょ)。その後、何度か陸海軍の演習の際に宿舎や大本営として明治天皇や皇族が宿泊した後、大正六年七月に住友本家に譲渡され、住友家が迎賓館として利用してきました。しかし、第二次世界大戦後、アメリカの統治下においてGHQに接収され、仕官の住宅として使われたと言います。

これらの経緯から考えて、もしこの建物が有栖川宮別邸の一部だとすれば、住友家から何らかの方法で譲り受けたと考えるのが自然ではないでしょうか? そこで、大阪市史編纂所の松岡氏にお願いして、住友資料館に問い合わせて頂いたのですが、住友家とこの家との関連を示す資料はないとの事でした。しかも、有栖川宮別邸について調べてゆく中で、昭和11年3月発行の『兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第十二輯』(2) という書物に、当時、住友家の所有していた旧有栖川宮別邸の写真や図面を見つけ、別邸が少なくとも昭和10年代初めまでは創建当時の姿を留めていた事を知るに至りました。つまり、この母屋が建てられた当時、有栖川宮別邸は創建当時の面影をまだ残しており、この母屋は有栖川宮別邸を移築したものではない事になります。
これはいよいよ「言い伝えはやはり言い伝えに過ぎなかった」と結論づけなければならないと思っていた矢先、神戸市在住の郷土史家村上忠男氏より大変興味深い論文を送って頂きました(3)。
氏は有栖川宮別邸について調査される中で、東京都立中央図書館所有の木子(きこ)文庫の中に、明治33年4月の日付のある有栖川宮別邸の図面を見つけられ、先に挙げた昭和11年発行の『兵庫県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第十二輯』の図面と比較されて、別邸中央の建物の1階部分が、三間続きの和室から洋室ひと間に改装されている事を発見されたのです。
この松屋町の母屋の二階も三間続きの和室で、この家を建てた人物は殊更(ことさら)この二階の部屋を大切にしていたらしいことから推すと、有栖川宮別邸の一部が和室から洋室に改装される際に、それまで使われていた部材が、何らかのルートでこの母屋の二階の和室に使われたという可能性もあるのではないか?と思い至り、諦めかけていたこの母屋の出自探しに再び一筋の光が見えてきました。
ですが、今のところ、これから先にはどうしても進む事ができません。もしこれを御覧の方で何か御存じの方があれば、どんな些細な事でも結構ですので御教示頂ければ、これほど嬉しいことはありません。

<蔵>

この家の蔵は現在、お洒落なカフェに華麗なる変身を遂げていますが、この蔵にも歴史を垣間見る事のできる跡があります。ここではその幾つかを御紹介しましょう。
蔵の入り口を入って左へ歩くと、暖炉などが置かれた少し広い空間があります。元々、貯蔵庫である蔵の中に暖炉があるというのも、考えてみれば可笑しな話ですが、それについては改めて書くとして、ここでは柱に書かれた文字から御覧頂きたいと思います。
先の少し広い空間でお茶など飲んでいて、壁面の柱に文字が書かれているのに気づかれた方も居られるのではないでしょうか?庭に向かって開かれたガラス窓の右脇の柱に「文化八年未十二月吉日 大坂西瓦屋町壱丁目 越前○○○大野六十・・・」との文字があります。
「文化八年」は恐らくこの蔵が建てられた年を示していると考えられ、西暦に直せば1811年ですから、今からほぼ200年前となり、母屋より蔵の方が先に建てられた事になります。「西瓦屋町」というのは、この辺の古い地名で、今でもこの近くに「瓦屋町」という地名が残っていて、この辺が瓦土取場であった事に由来すると言われています(4)。

さて、ここまでは簡単に想像できるところですが、その左に書かれた「越前○○○大野六十・・・」は少し説明する必要があるでしょう。
越前国大野は現在の福井県東部にあった地名で、この家の基を築いた平野屋籐八という人物が大阪に出てくる前に暮らした土地だと伝えられています。家伝によれば、源頼朝に仕えた佐々木盛綱が頼朝の死後、出家して越前国大野へ赴いた折に同道した4人のうちの1人が、籐八の祖先であったといいます。
籐八は天明8年(1788年)に没しているので、この蔵を建てたのは、恐らく籐八の四男利兵衛(写真)ではないかと思われます。利兵衛は京屋という屋号を名乗り、以後、明治まで子孫はその屋号を使っていました。一家に伝わる掛け軸の賛(さん)によれば、この利兵衛は日夜家業に打ち込み、質素倹約に努め、家を興した人物のようです。
京屋利兵衛 小森家所蔵 次に左脇の柱に目を転じてみると、こちらには「天保三壬辰年九月吉日 晒蝋惣蒿壱萬八千五百七十五斤」とあります。これはこの家の家業を示しています。先の越前から大阪に出てきた平野屋籐八は晒蝋(さらしろう)の製造を生業(なりわい)とし、それ以来、一家は明治に至るまでの長きに渡って晒蝋作りを続けてきました。
晒蝋とはハゼの実から抽出した生蝋を天日に干して漂白したもので、蝋燭(ろうそく)や鬢付け(びんづけ)などの原料として広く用いられました。江戸時代は動物や植物の油を使った行灯が主な照明器具で、蝋燭はまだまだ高価だったと言います。それでも、蝋燭は提灯での夜間の外出を容易にし、遊郭など夜の街の繁栄を支えたという一面もあるのかもしれません。
ハゼは気候の温暖な地域に適していたため、特に九州や四国で盛んに栽培されるようになりました。佐賀藩などは木蝋を当初は軍用品、後に特産品として位置づけ、その生産を奨励し、藩直営の製蝋所までも開設したと言います(5)。また、愛媛県の内子町には現在も当時の木蝋生産の様子を伝える文化財が残されており、それら文化財を見ると、当時、木蝋生産が同所に莫大な富をもたらした事がよくわかります。
これらの地方では、加熱圧搾してできた生蝋を、藩が年貢として徴収し、大阪中之島にあった蔵屋敷に運び、売りさばいていました(6)。平野屋籐八とその子孫は、その生蝋を大名から買い受けて漂白し、晒蝋として販売していたのです。当時の漂白の方法は、生蝋を鉄鍋で溶かし、溶けたものを冷水に注ぎ、花のような形に固まった物を更に天日で干すという作業を繰り返すというもので (7)、白色透明の晒蝋を製造するにはある程度の広さの土地が必要だったようです。
天保3年は1832年ですから、この蔵が出来て約20年経過した時点で、年間の生産高が18575斤あったという事かもしれません。1斤を600gとすると、この年の総生産高は11.1145tという事になります。これが当時、どの程度の規模だったのかは定かではありませんが、敷地の広さから考えれば、それほど大規模な生産が可能だったとは思えません。

日本における木蝋生産の最盛期は江戸末期から明治にかけてと言われています。国内の蝋燭の需要は、明治に入って鎖国が解け、西洋からランプが輸入されると、急速に萎(しぼ)んでしまったようですが、一方で、海外における日本産の木蝋に対する評価は幕末頃から高まりを見せ、1857年には佐賀藩がオランダから飛雲丸という帆船を購入するのに、銀千貫(約十数億円)相当の木蝋で支払ったと伝えられているほどです(8)。その後も木蝋は日本の特産物「Japan wax」としてパリ万博にも出品され、輸出品としての地位を確立するようになります。
しかし、ここ大阪では事情が異なっていました。大阪は近代化に伴い工場が増え、それら工場の煙突からは大量の煤煙が吐き出されるようになりました。大阪は今でも「水の都」と呼ばれる事がありますが、当時の大阪にはもうひとつの異名がありました。それは「煙の都」です(9)。産業革命時代のロンドンを指して「霧のロンドン」という表現が用いられた事は御存じの通りですが、その「霧」なるものはしばしば工場からの煤煙であったとも言われています。とすれば、大阪は「日本のベニス」であると同時に、「日本のロンドン(10)」でもあったと言えるかもしれません。
ロンドン同様「煙の都」である事は、大阪が近代工業化の先端を走っていた証ですが、それは晒蝋業者にとってはまさに逆風でした。煤煙のため、市内では生蝋を天日で干して漂白する事ができなくなってしまったのです。これによって明治20年代の末、この場所での晒蝋製造は幕を閉じる事となりました。

<小森曲がり>

長堀通を西から東に進むと、松屋町筋と交差する所で左にカーブしている事に気づかれた方も多いでしょう。昔、土地の人はこのカーブを「小森曲がり」と呼んでいました。今でも地元の年配の方の中には、その事を覚えて居られる人も少なくありません。
このカーブがなぜ「小森曲がり」と呼ばれるようになったのか?その発端は明治42年12月19日の朝日新聞の記事でした。「市参事会員横暴の一例」と見出しのついたその一文は、大阪市電の第二期線として明治41年8月1日に開業した東西線が松屋町筋辺りで湾曲しているのは、当時、大阪市参事会員だった小森理吉郎なる人物が、長堀通の延長線上にある自分の家が撤去されないよう画策したものだ、というスクープ記事でした。しかも、その湾曲した線路を彼の所有地を通るようにした為に、自身の土地264坪を市に買い取らせたというのです。

大阪朝日新聞 明治42年12月19日(日曜日) p.9

ここで小森理吉郎がどのような人物だったのか、少し説明しておく必要があるでしょう。小森理吉郎は先の平野屋籐八から数えて五代目にあたります。それ以前の一族同様、晒蝋の製造に携わっていましたが、前述のように工場から排出される煤煙のため、生蝋を天日で漂白する事ができなくなり、市内での製蝋事業を断念せざるを得なくなりました。その一方で、明治30年、他の大阪の実業家と共に大阪運河株式会社を設立。現在の京セラドームの近く、安治川と尻無川をつなぐ長さ約1800m、幅約36mの境川運河を開削(かいさく)しました。この運河は、いまだ水運が主要な輸送手段だった当事の大阪の産業振興に貢献したと伝えられています(11)。彼は「煙の都」大阪によって先祖から受け継いだ事業を失うと同時に、急速に近代工業化する「水の都」大阪の流れを上手く捉えた実業家だったと言えるでしょう。

境川運河図面 小森家所蔵

小森理吉郎 小森家所蔵 一方、彼は政治家としての一面も持っていました。明治21年の「市制」発布により大阪市が誕生した明治22年、南区から最初の市会議員の1人として選出されて以来(12)、地方政治家として大阪市の運営に関わり、市会の議長も務めたといいます。
さて、ここで先の新聞記事に話を戻しましょう。彼のような実業家でもあり、大阪市政の重鎮でもある人間が自らの地位を利用して、公共交通機関たる市電の線路を恣意的(しいてき)に曲げたというのですから、当時としては大変なスキャンダルだったに違いありません。多数の口の端に掛かるのも当然だったでしょう。そして、いつしかあの長堀通のカーブは「小森曲がり」と呼ばれるようになったのです。
しかし、彼はそれで引き下がるような人物ではありませんでした。明治42年12月23日付けで朝日新聞社本社に弁駁書(べんばくしょ)を送りつけたのです。その内容は次のようなものでした。

弁駁書

拝啓 本月十九日御発刊の貴紙に『市参事会員横暴の一例』と題して目下工事中なる市営電気鉄道の末吉橋を東に渉りて松屋町筋辺より湾曲せる線路を以って拙者の住宅を避くる為めの私曲に出つる旨御記載相成候は全く虚構讒誣にして為めにするの記事と被存是多大の勢力と信用とを有せらる貴社の為めに惜む処なると共に拙者の名誉に関する少からざるを以て左に理由を揚げて是正を求め候。

一、末吉橋より東へ一直線に谷町へ出ハとせば末吉橋と谷町とは数十尺の高低あるを以テ築堤工事又は切り取り工事かを施さざる可からず築堤工事を施せば数十尺の下層にある堤坊の両側の人家は谷の底にある如くなるべし。又切り取り工事を施せば谷町線の南北線と末吉橋線の東西線との連絡には架橋して電車の乗り換えには数十尺の階段を昇降せざる可からず。如斯は何れも困難不便にして堪ゆる所にあらず是れ線路を高低の差なき安堂寺町南裏通に設計せられた理由に候
二、右に揚げたる多大の困難不便を見ずして一直線に線路を敷設するの設計あらば宜しく社会公衆の為めに其便利なる設計を示され度候
三、湾曲せる新線路が進んで御祓筋を超えて尚東せんとする寄り著きの位地に拙者の広やかなる地所を所有し居り其胴真中へ線路を引張り行ける旨御記載有之候も右は全く虚構に候右線路に当れる土地所有者中には拙者と同姓の人有之候も拙者の所有地は一坪も買収せられたる事断じて無之候
四、貴社と浅からざる御関係ある村山龍平氏は幸に此度市参事会員に御当選に付湾曲せる線路は拙者の私曲に出でしや如何を御調査被下候得ども真に明瞭致候事と存候。
五、仮に私曲を以て線路を湾曲せしめたりとせば如何、市長、市参事会、助役、電鉄課長、市会等を悉く瞞著せざる可からず。拙者は誤りて市参事会員の末班に列し候も迚も左様なる大手腕もなく又理事機関議事機関ともに如斯私曲を容るる者にあらざる事は識る者の知る所に候。

右弁駁書御掲載被下度新聞紙法第十七条により及請求候也。

つまり、問題の家は上町台地の西端にあり、長堀通を真っ直ぐに延長しようとすると、かなりの高低差があるため、手前の部分から徐々に盛り土をするか、上町台地の一分を掘削(くっさく)して高低差をなくすかの何れかしかない。それよりも上町台地の縁を巡る形で、高低差の少ない安堂寺町に線路を敷設した方が現実的である上、市の事業を一参事が左右する事はできない。また、市が買い取った土地の所有者は同姓の別人物だ、というのです。
確かに、買収された安堂寺町の土地は、小森の姓を持つ親戚筋にあたる人の土地で、小森理吉郎本人の土地ではありませんでしたし、彼の言うように、松屋町筋から彼の家まではかなりの高低差があり、そのままで線路を敷設するのは不可能だったでしょう。このように考えると、彼の主張もあながち単なる言い訳ではなさそうです。
さて、この弁駁書の最後に、この手紙を新聞に掲載するよう求めると書かれていたので、これ以後、2~3ヶ月の朝日新聞を調べてみたのですが、残念ながら、これが朝日新聞に掲載された形跡はありませんでした。今なら反論投稿などに応じる新聞も少なくありませんし、政治家が自身のブログなどで新聞記事に対する反論を繰り広げるのもよく見かけますが、当時は日本に新聞が登場して約40年、今のような新聞報道に対する倫理規定などもなく、個人が意見を述べる媒体もほとんどなかったと考えられますので、この弁駁書は他の人の目に触れる事なく、朝日新聞の記事こそが真実として一般に受け入れられてしまったように思われます。
それから時代は下り、大正6年4月20日、衆議院議員選挙が行なわれ、小森理吉郎も立候補しました。事前の予想では当選確実と言われていたらしいのですが、フタを開けてみれば落選。噂ではこの新聞記事が祟ったのだとも言われましたが、今となっては真相は分かりません。唯、もしこの時、彼が当選していたら、この家の運命もまた違うものになっていたかもしれません。

<陸軍の水槽>

現在、駐車場になっている東側の敷地は、嘗てこの家の庭でした。庭と言っても元々、晒蝋を天日に干すために使われていたので、よくあるお屋敷の庭園というようなものはなかったようです。
第二次世界大戦の末期、大阪市の要請で、この庭に或る建造物を作る事になったそうです。地元の人の話によると、その建設に当たったのは陸軍の工兵隊だったと言います。つまり、その建造物は軍用設備だったという事になります。
それは敗戦の色が濃くなった物資のない時期、どこにこんな建築資材があったのかと驚くほど強固な分厚いコンクリートで出来た円柱形の湯飲みのような形をしており、その大部分は地中に埋められ、中には水がなみなみとはられていました。当時は、上にフタの様なものがあったそうですが、それを見た周りの人は、紀伊水道を上がってくるB29を打ち落とすための高射砲か高射機関銃の台座ではないか、などと話していました。
ところが、敗戦が近づくにつれ、ついに完全に物資が枯渇し、この建造物は完成を待たずに放置される事となります。この建造物はいつしか「陸軍の水槽」と呼ばれるようになっていました。
昭和20年、大阪は大規模な空襲に見舞われ、この一帯にも焼夷弾が降り注ぎました。当時、この庭の横の長屋に消防団長が住んでいて、空襲で家々が燃えそうになっていると見るや、母屋の大屋根に上り、「あっちの家に火がついたぞ~」「今度はこっちや~」などと言いつつ、住民にこの「陸軍の水槽」に溜まった水で消火するよう采配を振るったと言います。
もし、日本にもう少しの資金や資材が残っていて、この「陸軍の水槽」が本来の計画通り完成し、台座に高射砲や高射機関銃などが据え付けられていたなら、アメリカ軍の格好の標的となり、恐らくこの家もこの周辺の家屋も完全に焼失していたに違いありません。第二次世界大戦中の兵器に詳しい方によれば、「水槽」に溜められていた水は、砲弾の発射によって熱くなった砲身を冷やし、連射を可能にするためのものだとの事。敵の標的となったであろうこの「水槽」の水が、家々を焼失から救ったのだとすれば、これまさに「塞翁が馬」というところでしょうか?
以前、この土地を駐車場にするために整備する際、長らく眠っていた「陸軍の水槽」がほんの短期間ではありますが、姿を見せた事があります。ぽっかり地面に空いた入り口を入ると、梯子段があり、底にはまだ水がたたえられていました。現在、その上にはアスファルトが敷かれ、「陸軍の水槽」は再びひっそりと土の下で眠っていることでしょう。

地面に空いた入り口 梯子段
「水槽」内部の上部 「水槽」内部の下部

<蔵の中の暖炉など>

先に蔵の中にある暖炉について少し触れました。蔵は元々、物を貯蔵するための建物なので、暖炉などの暖房器具はないのが普通です。しかし、この暖炉はカフェの装飾として新しく設置されたものではなく、かなり以前からこの蔵に存在していました。
第二次世界大戦の末、大空襲によって大阪の街は文字通り焼け野原と化してしまいました。その頃、心斎橋に加藤肛門科という病院がありました。かなり有名な病院だったようで、当時の横綱だった羽黒山も患者として治療を受けた事があったそうですが、残念な事に、この病院も又、大阪大空襲で焼けてしまいました。
加藤肛門科 小森家所蔵 幸い勤めていた医師や看護士達は無事だったので、近くで病院として使えそうな大きな家を探していたところ、ちょうど空襲の被害を免れたこの家を見つけ、使わせて欲しいと所有者に頼み込んだのです。空襲が激しさを増し、みな疎開してしまい、住む者がいなくなっていたこの家は結局、病院が借りる事となり、以来、昭和40年代初頭までここは病院として使われる事になります。
蔵は内部を仕切られ、個室の入院病棟に改装されました。暖炉がある場所は当時の一等病室だったところだったと言います。母屋の2階は入院患者のための大部屋で、1階には待合室や診察室があり、玄関から入って左奥は手術室でした。現在、おばんざいの店の中にある沢山の蛇口は、当時、手術に大量の水が必要だったために、病院によって作られたものです。また、母屋で診察を受けたり、手術を受けたりした個室の入院患者のために、2階には、蔵と母屋をつなぐ渡り廊下も設置されました。
しかし、この病院には1つ大きな問題がありました。それはお風呂です。当時、肛門科で治療を受けている患者は、患部を清潔に保つために入浴するよう言われていたらしいのですが、この家は元々、個人の居宅として建てられたもので、大勢の入院患者が入れるような大きなお風呂はありませんでした。
そこで入院患者達は、近所の銭湯まで歩いて通うことになったのですが、皆、肛門の治療を受けていたために、歩く時、どうしても中腰のような姿勢になってしまいます。ですから、毎日、病院から中腰の人が連れ立って銭湯まで歩いてゆく姿が見かけられたのだそうです。
そんなある日のこと、銭湯の入り口に一枚の紙が貼られていました。そこには「あひる艦隊いやいや」と書かれていたそうです。病院から肛門を患った患者達が大勢やってくると、他のお客さんが嫌がると思ったのか、当時、有名だった関西のお笑い芸人グループ「あひる艦隊(13)」の名前をもじって、患者さんが来ないよう、銭湯の人が「やんわり」断った訳です。「○○病院入院患者お断り」などと直接的な表現を使わないところが、上方流のユーモアと言えるでしょうか?
結局、病院側は仕方なく、病院内に患者用のお風呂を新設する事になったと言います。が、そのお風呂も今は残っておらず、今となってはこの逸話も一種の昔話となってしまいました。

(1) 『モダニズム再考 二楽荘と大谷探検隊Ⅱ』芦屋市立美術博物館 平成15年9月6日
(2) 『兵庫縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第十二輯』明治天皇聖蹟 兵庫縣 昭和11年
(3) 村上忠男「有栖川宮舞子別邸と賀陽宮須磨別邸について」『歴史と神戸 特集地名研究』第50巻 第2号 平成23年4月1日
(4) 大阪市市民局『大阪の町名 -その歴史―(上巻)』平成2年3月31日
(5) 後藤正明「明治期における木蝋業の発展過程―肥前木蝋同業組合を中心にして―」徳永光俊・本多三郎編『経済史再考 日本経済史研究所開所70周年記念論文集』大阪経済大学日本経済史研究所 平成15年5月15日 pp.305-307
(6) 小森三郎「木蝋と日本文化」第一工業製薬社報 昭和59年第429号
(7) 小森三郎「末吉橋の『晒し蝋』製造家に生まれた応用化学の阪大名誉教授」『大阪人』第56巻 第8号 平成14年8月11日
(8) 「改革ことはじめ 蝋で船を買う」佐賀新聞2003年3月16日 http://www3.saga-s.co.jp/pub/hodo/kaikaku/kaikaku11.html
(9) 橋爪紳也『「水都」大阪物語―再生への歴史文化的考察』藤原書店 2011年3月30日 pp62-75
(10) 実際は、大阪はロンドンではなく、「東洋のマンチェスター」と呼ばれていました。
(11) 『大阪春秋 第9号 大阪昭和五十年史』大阪春秋社 1976年1月 p.143
(12) 大阪市参事会『大阪市会史 第壱巻』大阪市役所 明治43年12月5日 p.3
(13) 「あひる艦隊は、戦前からの“ボーイズ”(今でいう音楽ショウ)の草分けであり、ダイナブラザーズと肩を並べていた。」相羽秋夫『現代上方演芸人名鑑』少年社 1980年8月10日

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